「がんぎ」とは言わなかった。「がげ」と呼んでいた。そこは通り道というより、子どもの遊び場だった。通行人に遠慮しながら、時には叱られながら、下駄隠しやがんどう、ゴム段、鞠つき、それにイッチョをして遊んだものだった。
 さすがに石蹴りはしなかった。それは家の裏や道路や校庭でする遊びだった。子ども心にもわかっていたのだろう、チョークで陣地を描いて店の前を汚してはいけないと
 雁木は本当は私有地だ。雪に閉ざされても行き来ができるように、各家が軒下を道として提供しているのだ。
 本町通りはその雁木が連なり、私が子どもの頃は駅前まで傘を差さずに行くことができた──と書こうとして、あれ、ほんとにそうだったかなと急に自信がなくなった。
 昭和二五年一月生まれの私はもうすぐ六五歳、前期高齢者になる。十年一昔と言うが、もう五つも六つも昔を重ねた。
 朝粥を食べ、囲炉裏端でばたばた茶を飲んでいた町屋の暮らしや子どもの遊びを、まだ覚えているうちに書いておきたい。セピア色の思い出も語っていくうちに当時の色を取りもどすだろう。
 不定期の更新になるが、お読みいただければ幸いである。

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