昨年暮れの糸魚川駅北大火は痛ましくて言葉もない。柱も残っていない焼け跡が火勢の強さを物語る。糸魚川では火が出ると大火になりやすい。
昭和七年(1932年)の冬、横町から出火した火災では市街地の三六八棟が焼失した。旧倉又茶舗もそのとき燃えたのだが、幸いにも翌年に再建できた。
曾祖母の話では、前とまったく同じに建ててほしいと、棟梁に注文をつけて建てた家だそうだ。だから築八十年といっているが、様式的には昭和よりもっと昔にさかのぼることができる古い町屋である。
じつは一カ所だけ、変更があったと聞いている。屋根が板葺きで置き石をしていたのをやめ、瓦葺きにしたのだ。防火を考えてのことだろう。
母屋は燃えたが、外にある奥蔵は残った。
鎮火して三日ほどたってから、もういいだろうと奥蔵の二階の窓をあけたら、火が走ったそうだ。一瞬のことで、驚いているうちに消えたとか。だから土蔵は充分冷めてから戸を開けなければいけないと祖母はいっていた。
天井と壁にはそのときの焼け焦げの痕が、いまだに黒く残っている。
奥蔵の棟札があれば建築年代がわかるのだが、見つからないのが残念だ。